フレッドに関する情報総合図鑑
フレッド専門ショップナビ
ビューティーフードコーディネーターの佑香です。
今日はいよいよ…イベントのご紹介です??
三ツ☆ヴィーガンパティシェ 武井和也の
「秋の夜長を楽しむ!スイーツ・レシピ」を味わう会
10月29日(日) 15:00?
はい。
私のイベントではございません
実は6月に開催された「朝食にも美味しい!スイーツレシピを味楽しむ会」に初めて参加させていただき、ヴィーガンスイーツにすっかり魅了されたワタクシ。
あれよあれよと素晴らしいご縁がつながって、このたび主催者側としてさせていただくことになりました!
ハロウィン真っ盛りのこの時期、“秋の夜長を楽しむスイーツ”をお楽しみいただけます。
かぼちゃはもちろん、栗やサツマイモ、リンゴなど、秋の実りがたっぷり??
食欲の秋でも怖くない、ギルトフリーのヴィーガン・スイーツをご用意する予定です♪
主宰はヴィーガンパティシエの武井 和也さん。
武井さんは自由が丘のマクロビスイーツ専門店でオープニングスタッフとして従事したのをきっかけに、ヴィーガン・パティシエとしての活動を開始され、その後複数の専門店でパティシェを務められています。
現在は更にワークショップやヴィーガンスイーツのレッスン講師、イベントでのヴィーガンスイーツの提供やレシピ提供など行っていらっしゃいます。
美味しさをとことん追求する職人レシピは、ヴィーガンの方にとどまらず、とってもファンが多いんですよ!
そんな武井さんがこのイベントの為に考えた、ほっこりあたたかいスイーツで、秋ならではの幸せを感じませんか?
ヴィーガンスイーツの世界を広げたい方も、ヴィーガンスイーツって何?という初めましての方も大歓迎です!
《ご賞味いただけるメニュー》
☆林檎のクランブルケーキ (デモ付)
☆さつまいものクラフティー (デモ付)
☆ナッツたっぷりフロランタン (デモ付)
☆栗ブラウニー
☆かぼちゃのセミフレッド
☆チャイのアイス
うーん、美味しそう
このイベントの特徴は、皆様のお好みで2つの方法から選んで参加いただけること!
@クッキングデモ教室+ご賞味会
せっかくならプロ直伝のスイーツ作りのコツを学びたい!という方向け。
デモをじっくりご覧いただきながら、もちろん質問もOKです!
時間:15:00?17:30
料金:6,000円(税込み6,480円)
Aご賞味会(レシピ付)
美味しそうだから、とりあえず食べてみたい!
時間の関係でデモからの参加は難しい…
という方は、ぜひご賞味会からいらしてください!!
レシピをお渡しするので、その際に武井さんに作り方を質問することもできますよ♪
時間:16:30?17:30
料金:2,800円 (税込み3,024円)
もし遠隔地にお住まいで、当日の参加は難しいけれど興味ある方には、レシピのみのお渡しもしております♪
実は今回の打ち合わせの際に武井さんが黙り込んで何かを考えておられました。
???…と思っていると
「このメニューだと、みなさんのお家での再現性が…」と。
色々と工夫をこらし、考えてくださった結果のレシピです!
会場は表参道にあるキッチンスタジオ。
ノートルスタジオ(青山)
東京都港区南青山3-5-1 O&K南青山102
http://notre-studio.com/access/
お申し込みはこちらから
楽しい秋の1日になること間違いなし
ご参加お待ちしております!
フレッドはどこへ向かっているのか
俺達のプロレスラーDX
第63回 アイドルから狂人まで…生真面目ブリザードに言葉はいらない/飯塚高史
それはある日のタッグマッチでの出来事。
先輩レスラーが対戦相手の後輩レスラーを試合中にも関わらず、叱責するというハプニングが起こった。
後輩レスラーが技を仕掛けた時、先輩レスラーは「効かないよ」、「何やっているんだ」といわんばかりにダメだしするのである。
こんな試合は長年、プロレスを観てきた者でも一種異様に映る光景だった。
先輩レスラーの名は当時新日本現場監督の長州力。
後輩レスラーの名は野上彰(現・AKIRA)と当時本名の飯塚孝之で闘っていた飯塚高史だった。
当時の野上と飯塚は若手ではなく、キャリア10年弱の中堅。
なのに、長州は二人に試合中に叱責した。
思えば飯塚という男は先輩レスラーからよくいじられたり、大目玉を食らう印象が強かった。
会社や組織にも一人くらいはいる、何もしていないのにいじられ、からかわれる存在。
20代後半の飯塚はそんな立場にいた。
しかし、今や飯塚高史は日本プロレス界屈指のヒールである。
今回は、あらゆるポジションを彷徨い続けながらも新日本プロレスで闘い続ける寡黙な闘志と呼ばれるプロレスラーの物語である。
飯塚は1966年8月2日、北海道・室蘭市に生まれた。
学生時代はバスケットボール部に所属し、汗を流した。
1985年5月に新日本プロレスに入門する。
同期には後にジュニアヘビー級戦線で活躍するエル・サムライ(松田納)、大型ファイターとして期待された大矢健一(現・剛功)、小型ながらガッツの塊だった片山明がいた。
一年半の期間を経て、1986年11月2日、後にパートナーとなる野上彰戦でデビューを果たす。
なかなか一、二年ほどは目立った活躍はなかったが、1987年に入門した後輩・鈴木実(現・みのる)との前座戦線で頭角を現す。そういえば鈴木のデビュー戦の相手は飯塚だった。
鈴木は飯塚との前座試合についてこう振り返っている。
「飯塚とグチャグチャな試合して控室に帰ったら、猪木さんがプッシュアップの棒を持って、凄い顔して立ってたんですよ。絶対に怒られると思ってたら、凄い怒鳴り声で『もうお前なんか、プロレス辞めちまえ!』ぐらいの勢いで飯塚さんが叩かれて。次は俺だって思ってたら、『お前はいい』って。」
しかし、飯塚はルックスもよく体格もある(身長181cm 体重 107kg【現在】)。
新日本は飯塚にここまで厳しく当たるということは、彼に対して期待が大きかったのかもしれない。
1989年に飯塚に突如、次々と大きなチャンスが訪れる。
アントニオ猪木のタッグパートナーに抜擢。
サンボ世界王者との異種格闘技戦に異例の抜擢。
全日本サンボ選手権出場し、上位入賞。
馳浩とともに、グルジアでサンボ留学。
帰国後の1989年7月に長州力とのコンビでIWGPタッグ王者となった。
新人でありながら、王者となった飯塚。
これぞ、今の言葉で言うところの団体のごり押しだった。
当時の新日本は闘魂三銃士は海外遠征中、将来のスター候補だった船木優治(現・誠勝)や鈴木実(現・みのる)はUWFに移籍した。またライバル団体・全日本プロレスの勢いが凄まじく、新日本は劣勢状態。テレビ中継もゴールデンタイムから撤退し、総帥・アントニオ猪木は参議院議員となり、エースの藤波辰巳(現・辰爾)は腰痛のため長期離脱。
現場監督の長州力が孤軍奮闘しているという現状だった。
その中で団体側がこしらえたニューヒーローが飯塚だった。
同時期に全日本ではキャリア1年弱の小橋健太(現・建太)がジャイアント馬場とのコンビでアジアタッグに挑戦したり、メインイベントに登場したりと新人ながら大活躍していた。
しかし、ニューヒーロー飯塚にファンは冷ややかだった。
肝心の試合内容がついてきていないのだ。
試合中に不甲斐ない飯塚にパートナーの長州にストンピングや張り手を見舞い喝を入れるというケースが多かった。
プロレス界ではよっぽどの才能のある選手でない限り、ぽっと出は人気は出ないものである。
袋小路の中で編み出したオリジナルホールドがブリザード・スープレックスだった。
サンボ修行で会得した裏投げとブロックバスターホールドをミックスさせた投げ技である。
(当初は投げた後にブリッジを効かせてフォールを狙う技だったが、後に投げっぱなしで多用するようになった)
タッグ王座から転落後は前座や中堅どころでキャリアを積み重ね、1991年5月にヨーロッパ武者修行(ドイツ・イギリス)に旅立つ。
現地では「サンボ・イーヅカ」というリングネームで活躍。
ちなみに、現地でもう一度来てほしい日本人レスラーアンケートの上位に「サンボ・イーヅカ」の名があったという。
1992年3月に凱旋帰国を果たした飯塚は、闘魂三銃士、馳浩、佐々木健介にマイクで宣戦布告をし、5人にシングルマッチを要求した。
ジュニアで活躍しヘビー級に転向した野上彰、メキシコから凱旋帰国したエル・サムライと「新闘魂トリオ」を結成し、下剋上を狙うことを宣言した。
しかし、標的となった三銃士と馳、健介の反応は冷ややかだった。
実際、飯塚がマイクで宣戦布告した時、控室は笑いに包まれ、あまり本気にとられていなかったという。
この時の飯塚への本音を佐々木健介はこのように告白する。
「短期サンボ修行、長州力と組んでのIWGPタッグ王座戴冠、ドラゴンボンバーズ、お膳立ての整った海外武者修行という、エリートコースに乗った流れが気に食わなかった」
これはもしかしたら標的になった彼らの総意ではなかったのだろうか。
彼らの中にもエリートコースを歩んだ者もいるが、彼らはそれ相当の苦労も重ねていた。
しかし、彼らには飯塚はただ団体の神輿を担がれて自分の意思で何も動いていないように見えたのではないだろうか。
そういえばこんなテレビ番組があった。
新日本プロレス創立20周年記念番組で、三銃士と馳、健介、獣神サンダー・ライガーがゲストで呼ばれてトークをしていた。
その途中で、飯塚と野上がとなりの控室から、三銃士と馳、健介に挑戦表明をするというシーンがあった。
しかし、あまりテレビ慣れをしていない飯塚の発言が冴えない。
「何回か彼らと闘いいつか勝ちたい」というどこか弱気にも映る内容に終始した。
最後は「倒してやるから覚えておけ!」とアジテーションしたが、三銃士や馳、健介の心には届かなかった。
極めつけはこのやり取りを聞いていたライガーの発言である。
それは的確で痛烈な飯塚へのダメ出しだった。
「失格ですよ。リングに上がっているんだから絶対勝つという気持ちでやらないと。10回やって1回勝てればいいという考え方ではダメ!そんな意気込みではこの5人には絶対勝てない。自分達の立場を分かっていない。そんな意気込みだったらさっさと帰った方がいい。」
飯塚は本来、地味で真面目な人間だ。
口ではトップ狙いを口にしたとしても、行動で相手を押しのけて上がっていくタイプではない。
しかし、そんな人間ではトップなんて狙えない。
そして、彼らへの宣戦布告にも言わされていた感もあり、心に響かないものだった。
飯塚は迷走する。
自身の希望も通らない。
凱旋試合ではレイジング・スタッフに血だるまにされるという最悪なものだった。
コスチュームはショッキングピンクで派手にはなったが、試合はしょっぱい試合も多く、なかなか芽が出ない。
トップ戦線には食い込めず、仕事をちゃんとやるプロとしてのやられ役ではなく、不甲斐ないやられ役になり続けた。
自分を変えようともした。髪を茶髪にしたり、技をアメリカンプロレスのように派手にしてみたり、アルティメット・ウォリアーのようにロープをゆするパフォーマンスもした。
それでも飯塚は浮上することはできなかった。
会社はそんな飯塚を見捨てなかった。
またもチャンスを与える。
1993年9月に野上彰と「J・J・JACKS」を結成する。
日本版のザ・ロッカーズのようなタッグチームを理想としたのかもしれない。
まるで宝塚歌劇団の男役のような派手派手なコスチュームを身にまとったアイドルレスラーに転身した。
しかし、それでもこのチャンスを生かすことができない。
後に野上が明かしたことだが、飯塚はこの路線に乗り気ではなかったという。
コスチュームを黒のショートタイツにモデルチェンジした飯塚。
1994年のG1CLIMAXでは5戦全敗に終わるものの、橋本真也戦、パワー・ウォリアー(佐々木健介)戦で好勝負を展開し、今度こそチャンスをつかんだかに見えた。
しかし、次のシリーズになると飯塚はいつものように前座戦線に甘んじる。
なかなかトップ戦線に食い込めない。
この頃になると飯塚は道場で若手を率いるリーダーのような立場になっていた。
それでも結果と内容に結びつかない。
1995年には後輩でヨーロッパから凱旋帰国を果たした天山広吉にシングルで敗れた。しかも、このシングルマッチは天山へのチャレンジマッチという名目で組まれたものだった。これ以上の屈辱はない。
それでも飯塚はこの現実を甘んじるしかなかった。
野上とのコンビはブレイクすることなく、1996年2月に解散した。
飯塚は元UWF戦士・山崎一夫のパートナーに抜擢される。
理由は飯塚のサンボ仕込みの寝技技術のレベルが高く、山崎の相方としてふさわしいと判断されたからだった。
1996年6月、山崎とのコンビで橋本真也&平田淳嗣が保持するIWGPタッグ王座に挑戦した飯塚。
試合は王者組の一方的なペースとなる。
パートナーの山崎は試合前から手やわき腹を負傷しており、そこを王者組に徹底的に狙われる。飯塚も山崎を助けようとするも再三カットをされてしまう。
それでも山崎は耐えに耐えて、腕十字で逆転勝利。
飯塚は約7年ぶりにIWGPタッグ王者となった。
しかし、一か月後に蝶野正洋&天山広吉に敗れ、王座陥落。
飯塚をこれを機に再び前座戦線に逆戻り、裏街道をさすらう。
その後、1年、2年、目立った活躍はなかった。
このままの立場で彼は終わっていくのか…。
飯塚は1990年後半から道場のコーチに就任する。
柴田勝頼はコーチ・飯塚についてこう語る。
「自分が新日本に入門した時、コーチ役の飯塚さんからこんな一言を言われた。
『おまえら、新弟子には自由はないからな』
飯塚さんの目は異常に冷たかった。当時の新弟子生活を経験している自分にしてみれば今の飯塚さんの方が素顔なんだと理解できる。とにかく恐ろしい人だった。」
そんな飯塚に思わぬところからプロレス界から注目されるようになる。
1999年1月4日東京ドーム大会で橋本真也VS小川直也が禁断のセメントマッチとなり、試合は大荒れとなり、両選手のセコンドが入り乱れて大乱闘となった。
その中で小川のセコンドについていた村上一成(現・和成)に対して、一時昏睡状態に陥るほど大ダメージを負わせてしまった飯塚。
これが原因で村上は飯塚にターゲットにして新日本に殴り込みをかけた。
2000年1月4日東京ドーム大会で、橋本&飯塚VS小川&村上というタッグマッチが組まれた。
飯塚はこの試合に賭けていた。
彼へのファンや周囲の期待も大きい。
もしかしたら人生で初めての追い風かもしれない。
自分の今の立場をわかっていた。
でもそれを言葉で態度を現さなかった。
そもそも口でのやり取りは苦手だ。
飯塚はなんと自らの髪をハサミで切ることで、気合を表現した。
試合は小川と村上の打撃の嵐を橋本と飯塚がさばきながら反撃をし、最後は飯塚が村上をバックマウントからのスリーパーホールドでギブアップ勝ちを果たす。
勝利した飯塚はコーナーに上がって、大見得を切った。
観客は飯塚に大声援を送った。
「飯塚」コールも湧き起っていた。
ちなみにこれがきっかけで飯塚のスリーパーは"魔性のスリーパー"と呼ばれるようになる。
この一戦以後、飯塚は短髪となり、ひげを生やした。
その風貌はハードボイルドになり、スナイパーという雰囲気を漂わせるようになる。
2000年4月には村上とのシングルマッチで勝利し、7月には佐々木健介が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦し、激闘の末敗退。
8月のG1式戦では永田裕志と大会ベストバウト級の名勝負を展開した。
年末のG1タッグリーグ戦では永田とのコンビで優勝を果たす。
2000年は飯塚にとって飛躍の年となった。
しかし、2001年6月の長井満也戦で首を負傷し、長期欠場をしてしまう。
復帰したのは2002年10月。
この時期は新日本は離脱者が相次いだ。
先輩、後輩も含めて多くのレスラーやスタッフが混乱状態の新日本を離れた。
飯塚は道場のコーチや選手会長として、暗黒期の新日本を見守り、それでも残った。
飯塚は入門テストに合格し、団体から連絡がない中で「早く入門させてください」と室蘭から押しかけて入門を果たしたという。
新日本プロレスのプロレスラーとしての誇りを飯塚は内に秘めているが、誰よりも強かったのではないだろうか。
悩んだかもしれないが、新日本を辞めるという選択肢は持てなかったのではないだろうか。
そんな中で再び飯塚は脚光を浴びる機会が訪れる。
2008年、G・B・Hを追放された天山広吉を飯塚は助けたのである。
時には天山へのイス攻撃の身代わりにもなった。
天山と飯塚は「友情タッグ」というコンビを結成し、4月にG・B・Hの真壁刀義&矢野通が保持するIWGPタッグ王座に挑戦した。
しかし、飯塚は試合中に天山を裏切り、なんとG・B・Hに加担。
衝撃のヒール転向を果たしたのである。
20年以上正統派だった男の裏切りに大阪は凍りついた。
ヒールに転向した飯塚は丸坊主となった。
顎鬚(あごひげ)を蓄え、凶器や反則のオンパレード。
「アイアンフィンガー・フロム・ヘル」と呼ばれる鉄の爪での地獄突きであらゆる相手を痛めつけた。
サンボ仕込みの寝技は使わない。
技らしい技をほとんど使わなくなった。
人間の言葉は発しない。
その代わりに奇声を発しながら、場内や控室を徘徊する。
入場時には観客席を破壊しながら現れる。
もはや狂人、キ〇ガイである。
チェーンデスマッチで天山や永田を残忍な手法で破り、チェーン・マスターと呼ばれるようにもなった。
G・B・Hの主力メンバーと中邑真輔で結成した「CHAOS」に入ると、飯塚はさらに凶悪化した。
またテレビ朝日の野上慎平アナウンサーを襲撃し、長年にわたる放送席での抗争に発展。
野上アナは本当にひどい目にあった。
時にはYシャツを破かれ、青義軍Tシャツを破かれ、シャワールームに連行され、びしょ濡れの刑に遭い、アイアンフィンガーが入った袋で殴られた。手錠をかけられたこともあった。
時には、金や銀、黒のスプレーでペイントされ、ドラえもんのように描かれたこともあった。
プロレスラーと実況アナの抗争は、プロレス界の伝統みたいな部分もあった。
飯塚は野上アナに襲うことでこの伝統を復活させた。
その一方で飯塚の肉体はヒール転向後、ビルドアップされるようになった。
練習を怠っていない証拠は肉体に現れる。
飯塚の肉体は練習の賜物である。
矢野通とのコンビ「ヤノヅカ」も、新日本になくてはならないコンビとなった。
天山と小島聡との抗争で盛り上げ、IWGPタッグ王者となった。
プロレスリングノアのリングでは丸藤正道&杉浦貴を破り、GHCタッグ王者となった。
名物コンビとなった「ヤノヅカ」だったが、2014年5月に飯塚は矢野を裏切り、鈴木軍に加入した。
これはCHOASというユニットは当初は極悪ユニットだったのだが、オカダ・カズチカや中邑真輔人気もあり、第二正規軍という立場にシフトチェンジするなかで、鈴木軍の変化を求めたボスの鈴木みのるが新しい戦力として狂人・飯塚を欲したのではないだろうか。
鈴木軍入り後も飯塚は変わらない。
今のキャラクターでいる限り、男は狂人であり続ける。
そういえば、ヒールほどその正体は実力者だったりするものである。
新日本史上最恐の悪役タイガー・ジェット・シンは、フレッド・アドキンス仕込みのレスリング技術を持っている男だった。
飯塚に風貌やキャラクターが似ているマッドドッグ・バションは元オリンピック・レスリングカナダ代表である。
妖獣ことバロン・フォン・ラシクも、元オリンピック・レスリングアメリカ代表に選出されている。
そして彼らの共通項は技術があるにもかかわらず、反則技オンリーで技をあまり使わないのである。
プロレスは技だけ出せばいいのではないのだ。
飯塚は彼らの系譜を継いだヒールとなったのかもしれない。
昨今の世の中はネット社会だ。
SNSで選手のプライベートもファンに直にわかってしまうのが今の社会だ。
その中で、飯塚が普段どのような行動をしているのかという情報はほとんど流出していない。
ヒール転向後、飯塚はあらゆる繋がりや誘惑を断ち、ヒール像を忠実に守っているという。
行動も主に一人でやるという。
これこそがプロ意識の成せる所業である。
また自己主張をするために言葉を発するレスラーで氾濫する今の時代、敢えて言葉を発しないというレスラーは実は空き家なのである。
そんな姿勢も含めて、本来の飯塚の性格だからできたことではないかと考える。
彼は「生真面目」なのだ。
その生真面目さが、20代後半の飯塚の出世を阻んでしまった。しかし、熟年になり、ヒールに転向してからこの生真面目さが生きてきた。
生真面目だから飯塚は新日本でここまで生き残ってこれたのだ。
生真面目だから飯塚は徹底的に悪役になることができたのだ。
団体のごり押しによってニューヒーローに祭り上げられたこともあった。
不甲斐ない試合は数えきれないほどやった。
猪木や長州に叱責されたこともあった。
闘魂三銃士、馳や健介に相手にされなかったこともあった。
不本意ながらアイドルレスラーになったこともあった。
後輩の後塵を拝したこともあった。
噛ませ犬になり、苦汁をなめ続けた。
若手のコーチ役となり、厳しく指導もした。
実力派として脚光も浴びたこともあった。
そして、辿り着いた狂人という職業。
エース以外のあらゆる立場を経験した生真面目ブリザード・飯塚高史。
彼のリングでの行動や試合を見て、我々はそこから何かを考えるのではなく、感じることだ。
今宵も四角いジャングルでは苦汁をなめつくし、悲しみや苦しみを乗り越え、悪役として生きる覚悟を決めた狂人の咆哮が聞こえてくる。
そんな男に言葉はいらない。
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